「和」と「黒」
MIYUKI CRAFTS-SUITS のホームページを刷新するにあたり、全体イメージを「和」「陰翳」に求めました。それは、「御幸が紳士服地メーカーとして日本を代表する会社として、日本の風土に根ざしたものづくりを日本から世界に向けて発信していく会社でありたい。」という想いと御幸が長年「黒」の服地を極めることにこだわってきたことを表象するキーワードであるからです。
「外村宇兵衛」と「御幸毛織」
今回の撮影地に選んだ東近江市五個荘の「外村宇兵衛邸」と当社は、百有余年のつながりを持っています。外村家はいわゆる「近江商人」の中でも抜きんでた豪商で、東近江を起点に全国に幅広く事業展開していました。このうち「外村商店」は1905年創業当時から当社の大口仕入先でありましたが、その四代目当主である外村宇兵衛元享が毛織物の未来に着目、1918年「株式会社外村商店御幸毛織工場」として当社の経営を全面的に引き継ぎ、事業拡大し続け、今日ある御幸毛織の基礎を築き上げたのです。その「御幸中興の祖」である外村宇兵衛の自宅は、当時の外村家の繁栄を象徴するような広大・優美な庭園・屋敷で、その後東近江市に寄贈され重要伝統的建造物「近江商人屋敷・外村宇兵衛邸」として明治時代の姿そのままに保存・一般公開されていました。外村家は6代目以降当社の経営から離れ社名も現在の「御幸毛織株式会社」となりましたが、宇兵衛邸内の資料室には御幸の歴史、最新の商品を常設展示、当社によるイベント開催など、外村宇兵衛邸と当社の関係はその後も連綿と続いています。
このような背景から、「和」を表象する舞台を外村宇兵衛邸に求めたのは御幸として必然であるとともに、百年前に築かれた礎に帰りたち、新たな百年に向けた挑戦をするという、御幸の確固たる決意の表れでもあるのです。
※外村宇兵衛邸
近江を代表する豪商 外村宇兵衛邸
外村宇兵衛家は、近江商人である外村与左衛門家から分家した家です。分家後、しばらくは本家と共同で事業を行っていましたが、文化10年(1813)に独立し、努力の末に東京・横浜・京都・福井などに支店を置き呉服類の販売を中心に商圏を広げました。そして明治時代には全国長者番付に名を連ねるなど近江を代表する豪商としての地位を築きました。
現在の主屋は万延元年(1860)の建築と古く、素朴な外観でありながら広大な接客空間を有しており、その造作に贅を凝らしています。明治時代の隆盛期には主屋のほかに書院(京都市の仏光寺へ移築)や蔵などの建物が十数棟もたち並んだようです。また、庭園は当初「神崎郡内一番の庭」と評価され、石組や飛石などに優れた技法がのこります。
外村宇兵衛邸は、近江商人本宅の特徴をよくのこすことから市の史跡に指定されており、近江商人の暮らしぶりを今に伝えます。
築160年の時を超えるこの建物は、近江商人の三方よしの精神を体感できるプログラムを取り入れた宿泊施設として整備されました。外観の趣は残しつつ、内装や設備、蔵、厨房をリノベーションし、新たに浴室棟を設けています。
NIPPONIA 五個荘 近江商人の町 外村宇兵衛邸
東近江市五個荘金堂町645
https://nipponia-gokasho.jp/
はじめに「御幸」ありき
外村宇兵衛邸(東近江市五個荘金堂町)の近くに鈴鹿山脈を源流に琵琶湖に注ぎ込む「愛知川(えちがわ)」がありますが、愛知川と国道8号線が跨ぐ橋が「御幸橋」と名付けられています。1978年明治天皇巡幸のさいに「御幸橋」と名付けられましたが、橋が掛けられたのは江戸時代である1831年。当時の篤志家の手により民間でかけられたものです。この篤志家の一人が外村宇兵衛その人と伝わっています。したがって、御幸毛織の「御幸」の名はこの「御幸橋」が由来と伝えられてきました。一方で外村家が興した今も続く数々の会社はすべて社名に「外」の一文字を含んでいます。事実当社も「株式会社外村商店御幸毛織工場」が正式名称でした。ところが唯一当社のみ今に至る「御幸毛織株式会社」が社名として定着いたしました。実は「御幸」の文字は外村家の経営となる1918年より10年遡る1908年にすでに商標登録されており、以降当社の製造する織物の一切には「御幸」の名が冠されていました。したがって、1918年時点で当社は『’御幸’の名を冠した毛織物をつくる会社』=「御幸毛織」として世間に認知されていたのです。いまに残る歴史ある企業が創業家や所在地名を冠した社名がほとんどであるのに対し、当社は創業当初から自社製品ブランド自体を社名に冠するというものづくりの姿勢を明確にした会社でした。